Partager

第3話「森の中の出会い」

last update Date de publication: 2025-11-13 17:51:15

 森はどこまでも深く、頭上を覆う枝葉は陽光を遮り、昼であるはずなのに黄昏時のような薄暗さを漂わせていた。

 湿った土と苔の匂い、木々の間を渡る風の音――それらすべてが同じに感じられ、セリュオスは何度歩いても同じ場所に戻って来るような錯覚に陥っていた。

「……やっぱり、方向感覚くらいは鍛えておくべきだったか」

 額の汗をぬぐい、苦笑混じりに吐き出す。

 勇者の紋章を持っているとはいえ、冒険者としてはまだ駆け出しである。

 剣の重みも旅の孤独も、まだ肌に馴染んでいなかった。

 そのとき――森を裂くように獣の咆哮が響いた。

 低く重く、地の底から湧き上がるようなうなり。

 続いて、張り詰めた弦の音と、鋭い声が飛んでくる。

「そこよ! いいかげん倒れなさいって!」

 風が唸りを上げて矢を押し出す音がした。

 その声を聞いたセリュオスは本能的に駆け出していた。

 木立を抜けた先、その視界に飛び込んできたのは――巨大な影。

 それはバルガル・グリズリーと呼ばれる魔物だった。

 背丈は人の二倍を超え、肩の盛り上がりは岩のように厚い。

 逆立つ毛並みは闇夜の針山のようで、血で濡れた爪は鋭い刃にも勝る光を帯びていた。

 何本かの矢がその身に刺さっているが、効果があるようには見えなかった。

 その怪物に対峙していたのは、一人のエルフの女性。

 長い金髪が揺れ、しなやかな肢体は弓を引く動作に合わせて緊張と解放を繰り返していた。

 碧色の瞳は凛と輝き、決してひるむ色を見せない。

「ぐるぅうううっ!」

 猛熊もうゆう咆哮ほうこうを上げて突進する。

「危ない!」

 セリュオスは考えるより先に地を蹴っていた。

 エルフの前に飛び出し、左手を突き出す。

「――《ルクス・クトゥム》!」

 眩い光が広がり、宙に輝く盾を描き出していた。

 直後、凄まじい衝撃が襲った。

 巨体の質量が一挙にぶつかり、骨の髄まで響く圧が押し寄せる。

 セリュオスの足元の土はえぐれ、靴裏から震えが伝わった。

 それでも光の盾は砕けず、セリュオスも膝を折りながら踏みとどまった。

「はぁっ……! なんとか受けきったか……」

「ちょっと! いきなり前に現れて何してるのよ!」

 すると、セリュオスが守ったはずのエルフから怒声が飛んできた。

 彼女の眉はり上がり、唇は怒りに尖っている。

「何って、君を助けたんじゃないか!」

「助けなくても良かったわ! あなたが邪魔してきたせいで矢が逸れたじゃない!」

 二人が口論する間にも、バルガル・グリズリーは再び咆哮し、爪を振り下ろす。

 その一撃は簡単に木をへし折ってしまう威力を持ち、盾がなければ二人など一瞬で肉片に変わっていただろう。

「来るぞ!」

 セリュオスが盾を構え直し、再び爪を受け止める。

 火花のように光が散った。

「今度こそ射線を空けなさい! 次のは怪我じゃ済まないわよ!」

 エルフは軽やかに横へ跳び、弦を引き絞る。

 矢が放たれた瞬間、風の螺旋らせんが矢身を包み、空気を切り裂く音が響いた。

 矢は猛熊の脇腹に突き立ち、黒毛を裂いて血飛沫しぶきを撒き散らす。

「よし、いいぞ!」

「あなたの応援なんていらないから!」

「いや、俺の盾がなければ、その前に潰されていただろう?」

「何それ! それくらい避けてたし、勝手に手柄を横取りしようとしないで!」

 言い合いながらも、セリュオスは確実に魔物の突進を止め、エルフはその背後から的確に矢を射抜いていく。

 まるで互いの反発心がかえって戦術をかみ合わせているかのように思えた。

(――悪くない。戦い方が、妙にみ合う)

 セリュオスは胸中でそう感じていたが、声には出さなかった。

 バルガル・グリズリーは狂乱のごとく大地を踏み鳴らし、木々をなぎ倒しながら二人を追い詰める。

 森全体が巨獣の暴れに揺れ、鳥たちが群れを成して飛び去っていく。

「くっ……持たせる!」

 セリュオスは盾に力を込めるが、衝撃を受け止めるたびに土煙が舞い上がった。

「だったら早く崩して! 私の矢だけじゃ仕留めきれない!」

「わかってる!」

 深く息を吸い込み、セリュオスは再び詠唱を開始した。

「――《ルクス・クトゥム》!」

 盾が輝きを増し、猛熊の爪を逸らす。

 その隙を逃さず、エルフは跳び上がってからさらに身を反らし、矢を放った。

 風矢は一直線に魔物の片目へ突き刺さる。

 血が噴き出し、猛熊が絶叫する。

「グォォォォッ!」

「今だ! 止めを刺すんだ!」

「私に命令しないで!」

 反発はしつつも彼女は矢を三本同時につがえ、風を巻き込んだ。

「《スピラ・ヴェンティ》!」

 弦が震える音は雷鳴のように重く、放たれた矢は竜巻のような軌跡を描いて胸を貫いた。

 巨体が膝を折った瞬間、セリュオスは渾身の力で跳び込み、剣を振り下ろす。

 刃が骨を断ち割り、血の霧が辺りに舞い散った。

 バルガル・グリズリーが絶叫とともに倒れ伏し、大地を震わせた。

 ――そして、森に再び静寂が訪れた。

 巨体が地に沈んだことで、森は先までの喧騒けんそううそのように静まり返っていた。

 鳥の声すら戻らず、ただ湿った土の匂いと、血の鉄臭さだけが漂っている。

 セリュオスは荒くなった呼吸を整えながら剣を抜き取り、肩で息をついた。

「……ふぅ、やっと倒れたな」

 しかし、エルフはセリュオスの言葉に応えず、ジリジリと倒れた猛熊に歩み寄っていた。

 その目は一瞬たりとも魔獣の亡骸から逸れていない。

「おい、もう死んでるだろ。これだけの血を流して動けるはずが――」

「――甘いわ」

 短く切り捨てるような声が返る。

 エルフは短刀を持ったまま、倒れた巨体の目の前まで進んでいく。

 その時、死んだと思われたバルガル・グリズリーの片足が、痙攣けいれんするように小さく動いた。

 セリュオスは思わず身を乗り出す。

「まだ生きて……っ!」

 だが、フィオラの持つ短刀が、それより早く心臓を貫いていた。

 短いうめき声と共に、猛熊は完全に動かなくなった。

 彼女はそこでようやく肩の荷を下ろして息を吐いた。

「ほらね。息の根を止めるまで、戦いは終わってないの」

 目の前でそれを見せつけられてしまっては、セリュオスも苦笑を浮かべることしかできなかった。

「……用心深いにも程があるな」

「経験則よ。あなたみたいに“倒したから終わりだ”って安心して、返り討ちに遭ってきたヤツを何人も見てきたから」

 辺りに漂う血の匂いに眉をしかめつつも、エルフはしゃがみ込み、死骸の体毛をめくって傷口を確かめる。

 その手つきは冷静で、慣れている。

 セリュオスは剣に付着した血を拭いながら、その姿をしばし黙って見つめていた。

「……で? まだ何かするのか」

「当たり前でしょ」

 エルフは短刀で手際よく猛熊の爪を切り取った。

「バルガル・グリズリーの爪は高く売れる。冒険者なら常識でしょう」

「死体を売って、金になるのか?」

「“素材を回収した”のよ。むしろ、無駄にするほうが不自然だと思わない?」

 セリュオスは絶句する。

 勇者としての理想や正義感と現実的な冒険者の常識がぶつかって、言葉が出てこなかった。

「なによ、その顔」

「いや……ちょっと、その、驚いただけで……」

「……ふん。世間知らずの人間、ってわけね」

 エルフは立ち上がり、爪を布袋に収めると、初めてセリュオスの方をまっすぐ見る。

 碧色の瞳は冷たいようで、しかし底にかすかな興味がにじんでいるように見えた。

「で? あなた、この森に何しに来たの?」

「……俺はセリュオス。勇者だ。魔王軍を倒すために冒険に出たところだ……」

「勇者、ね。私はフィオラよ。でもあなた、勇者として旅に出たのはいいけど、この森で迷子になったんでしょ? ダサいわね」

「うっ……ぐ……。な、なぜそれを……」

「あまりに世間知らずだったからそう思ったの。普通の冒険者はこんな森の奥地まで何の用心もせずに入って来ないから」

 言葉に詰まるセリュオスを、フィオラはくすりと鼻で笑った。

「ま、野垂れ死なれても気分が悪いだけだし、道案内くらいはしてあげるわ」

「本当か? ……ありがとう」

「勘違いしないで。感謝されるために言ったんじゃない。あなたの死体でこの森を汚したくないだけ」

 フィオラはそっけなく言い放ち、森の奥を指差した。

「ついて来なさい。街まで出る道を教えてあげる」

 セリュオスは肩をすくめ、剣を腰に収めた。

 心の中で、妙なエルフと出会ってしまった……とつぶやきながら――。

白浪まだら

高評価のレビューやいいね、コメントをいただけると、続きを書くモチベーションを維持することができそうです! できるだけ長く書き続けたい作品ですので、応援よろしくお願いいたします!

| J'aime
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 時空勇者 〜過去に遡ったら宿敵の魔王と旅立つことになりました〜   第76話「戯れ」

     セリュオスたちが遺跡の奥に辿り着くと、一気に視界が開けた。  通路を抜けた先に広がっていたのは、円形の大広間だった。 天井は異様なほど高く、闇の中へ吸い込まれるように伸びている。  本当に遺跡の中だったのか、疑わしいほどに。 その中央には、かつては封印の中枢だったであろう巨大な柱が並び立ち――いや、正確には立っていた痕跡が残っているだけだった。  柱は半ばから砕け、宝石が埋められ、封印陣が刻まれていたであろう表面は剥がれ落ち、内側の核が剥き出しになっている。 床には放射状の亀裂が走り、それを縫うように魔力が脈打っていた。  シエルハだけでなく、セリュオスでも感じるくらいには強くなっている。「……ここが、最奥か?」  セリュオスが低く呟き、周囲を見渡す。  剣を構えたまま、足の裏で床の感触を確かめるように警戒しながら、一歩踏み出した――その瞬間だった。「……ッ!」  空気が歪んだ。  まるで水面に石を投げ込んだかのように、視界の端が揺らめく。 次の瞬間、遺跡の中に存在する影という影が、ゆっくりと剥がれ落ちるように形を成し始めた。  人型に近いものや獣を無理やり継ぎ合わせたような影。  四肢の数すら定まらず、輪郭が常に揺らいでいる不気味な影。 それらは静かに、しかし統率されたような動きでセリュオスたちを取り囲んでいく。  逃げ場はすぐに失われてしまった。「……こいつぁ、ラウシュの眷属に違えねェ」  ガドルの声は喉の奥から絞り出すように低かった。  恐怖というよりも、知っているものを見た時の確信に近い声だった。「ああ、数が多いな。だが……」  セリュオスは視線を走らせる。 「一体一体はそこまで強いとは思えない」  ミストヴェラールの魔物たちも退けてきたセリュオスたちにとって、有象無象の影たちは脅威には感じられなかった。「こちらを包囲して、足止めが目的の配置ですね。彼らの目的は殲滅ではありません。……時間稼ぎです」  魔力の流れを読んでいたシエルハが淡々と分析をしている。  すると、レバザが即座に霧を広げて、シエルハを守る壁を作り上げた。「何かあっても、私がいるから安心しなさい」 「とっても心強いです……!」  霧の壁だけでな

  • 時空勇者 〜過去に遡ったら宿敵の魔王と旅立つことになりました〜   第75話「封印遺跡」

     セリュオスたちが見つけた遺跡は、森の最奥で――まるで獣の顎のように口を開けていた。  巨大な石造りの隙間に、樹木の根が絡みつき、蔦が何層にも重なって垂れ下がっている。 人の手によって築かれたはずの石組みは、今や自然と区別がつかないほど侵食され、それでもなお、工人たちの意志を残していた。  近づくだけで、胸の奥がざわつき、空気は重く、そして冷たかった。 その場のすべてがセリュオスたちを拒もうとしている。  そう感じさせる圧迫感が、遺跡全体から滲み出ていた。「……少し見ねえ間によォ、なんか変わっちまったなァ」  ガドルが低く唸るように呟いた。  その声は霧に吸い込まれてしまいそうなほど小さかった。 ここがかつてガドルとディリダが子どもの足で踏み入った場所。  無知なままただひたすらに好奇心に突き動かされ、そして――恐怖のあまり逃げ出してしまった場所であり、ガドルの後悔の原点。  そんなガドルの視線は、遺跡の開口部に固定されたまま、動かなかった。「これが……」  シエルハが思わず息を呑んでいる。  見上げる遺跡の外壁には、所々に宝石のように煌めく鉱石が埋め込まれ、淡く光を反射していた。「ラウシュの封印遺跡……。ですが、封印したという割には……随分と、装飾が施されているんですね」  学者の視点から見ても、それは異様な光景ということらしい。  確かに、魔王の幹部を封じるための施設にしては、あまりに色鮮やかで装飾的すぎる。「あの野郎が出てこないようにって、遠いご先祖たちが願掛けしたって聞いてるぜ」  ガドルがぶっきらぼうに答える。  地を這う民の口伝では、そう伝わっているらしい。「宝石一つ一つに、祈りと呪文が刻まれてる。見た目は綺麗かもしれねえが、その中身は恨みつらみってやつだなァ……」  ガドルは言葉を切り、一歩前に出た。  遺跡の開口部付近で立ち止まると、セリュオスの方を振り返る。「中に入る前に言っとくが、この遺跡は、絶対にショートカットができねえんだァ」  その表情は冗談を言っているようなものではなかった。 「中に足を踏み入れたら、とにかく罠と仕掛けのオンパレード。壁、床、天井……全部が敵になっちまう」「……それなら、どうや

  • 時空勇者 〜過去に遡ったら宿敵の魔王と旅立つことになりました〜   第74話「ラウシュの狙い」

     一行の先頭にはガドルが立ち、森の奥へ進むほどに霧は濃さを増していた。  視界は白く澱み、数歩先の木々すら輪郭が曖昧になる。 地中にいる間はこの霧を見ることがなかったから忘れていたが、ミストヴェラールすらも敵となり、道に迷わせようとしてくるのだ。  とは言っても、セリュオスたちがその思惑どおりになることはない。 オルデリウスの意志を宿した蛍晶鉱石の首飾りが、道を示してくれるからだ。  それと同時にレバザも霧に混じったディリダの匂いを探ってくれている。 それでも、湿った空気が肺に絡みつき、呼吸のたびに重さを感じさせてきた。  地面を覆う蔦は、まるで生き物のように足首へ絡みつき、進行を拒む意思を隠そうともしなかった。 その中で、ガドルの後ろを進んでいたレバザの足が、不意に止まった。  彼女が周囲に纏っていた霧の揺らぎが、僅かに変わったように見えた。  彼女は斧槍を構え直すでもなく、ただ静かに立ち止まり、視線を上方へと移す。「……どうしたんだ?」  セリュオスも歩みを止め、仲間たちが自然と周囲を警戒する。 「いや、そこにいるアンタは誰だい? 隠れてないで出てきな」  その瞬間だった。 上方から、葉擦れの音が聞こえてきた。  ごく小さな音ではあるが、本人も姿を隠すつもりはなかったのか、気配を隠そうとしているわけではなさそうだった。「それ以上進めば、罠が待ち構えている」  澄んだ声が霧を切り裂く。  彼女は樹上から静かに降り立ちながら告げた。  淡い緑の衣に身を包み、しなやかな身のこなしで地面に立ったのは樹上の民の少女だった。「お前は確か、アシリィだったか……」  セリュオスがその名を呼ぶと、彼女は小さく頷いた。 「ちゃんと、名前を覚えてるのね……」  エレージアが何か言ったような気がするが、セリュオスは聞こえなかったフリをする。 対峙しているアシリィの表情は変わらないものの、その瞳にはこの森の異変を見逃すまいという鋭さが宿っていた。 「久し振り、勇者。でも――あまり急ぎすぎると、相手の思う壺」「だが、俺たちは魔王の幹部に攫われてしまったディリダを助けなければならない」  セリュオスは躊躇いなく言った。

  • 時空勇者 〜過去に遡ったら宿敵の魔王と旅立つことになりました〜   第73話「魔王の幹部」

     攫われたディリダの追跡は、地を這う民の街の外縁――普段は堅く封じられているはずの通路から飛び出し、さらに奥へと続いていた。  石の扉の隙間からは、湿った外気がゆっくりと流れ込んでいた。 冷たく、重い匂い。  木々の葉と漂う霧は、地上特有の香りだった。 セリュオスは無意識に大きく息を吸い込んでいた。  胸いっぱいに広がる空気に懐かしさがよぎる。  だが、それは安堵とは違うものだった。「……外まで出ちまったなァ」  ガドルの呟きは、どこか掠れている。  外に出た喜びよりも、焦りと不安が色濃く滲んでいた。 それでも、ガドルは足を前に運ぼうとする。  確かに、立ち止まっていてはディリダの元まで辿り着くことはできない。 レバザが斧槍を振り回し、周囲に漂う霧を操りながらディリダの行方を探っている。 「ディリダを攫った痕跡は、この先に続いているみたいだね」    すると、レバザが示した道の先で、エレージアの指先が小さな欠片を拾い上げた。 「これは……鉱物みたいね」  掌の上で光る欠片を見つめ、眉を顰める。 「でも、なぜ鉱物がこんなところに落ちているんでしょうか? 辺りに山は見当たらないのに……」 シエルハの疑問にエレージアが首を横に振る。 「いいえ、自然にできたものとは限らないわ。魔物が体内で造り出したものかもしれないし」 セリュオスも一歩近づき、欠片を確認することにした。  硬質な鉱物は自然のものとは思えない輝きを秘めていた。 「確かに、これは自然にできたものとは思えない……。ここまで不純物の混じらない鉱物ができるのは稀だからな。……これは、敵が落としたものなのか?」「わからないけど、そもそも……誰がディリダを攫ったの?」  エレージアが周囲を警戒しながら口を開くと、沈黙が落ちた。  誰もが考えてはいたが、口に出すのを躊躇っていた疑問だった。「あっしにも、わからねェ。こんなことは……初めてだ」  ガドルの視線は前方から逸らしていなかった。  これまで魔物が侵入することのなかった地を這う民の街が、外部から明確な敵意を向けられることなど、ほとんどなかっただろう。  ましてや、特定の個人を狙った誘拐など、誰の仕業と考えたら良いの

  • 時空勇者 〜過去に遡ったら宿敵の魔王と旅立つことになりました〜   第72話「誘拐」

     地下街の朝は、光ではなく音で始まった。  鉱石や金属を打つ乾いた響きが洞内を駆ける。 水路を流れる水は一定の調子で岩肌を撫で、遠くで誰かが呼び交わす声とそれに応じたであろう人々の足音が聞こえてくる。  地を這う民の街は、奇妙なほど静かに明るくなり始めた。「地上では鳥が朝を知らせてくれるが、やっぱり地下の朝は静かな気がするな」  お世話になったディリダの家を出たセリュオスは通りを歩きながら、動き出す街を眺めていた。  だが、昨日と同じはずの風景、灯具、石畳、生活の気配にも関わらず、何かが噛み合っていないような違和感を拭えずにいた。「……んー。でも、妙ですね」  首を傾げながら足を止めたのは、シエルハだった。  彼は壁面に刻まれた古い紋様の前に立ち、それをなぞるように指先を動かしている。  触れるというよりも、何かの流れを追っているように見えた。「何が妙なんだ?」 「この街全体がおかしいと言いますか、昨日と比べて明らかに魔力の流れが変わっているんです」 「魔力の流れが変わった? どういうことだ?」  魔力の流れと言われても、正直ピンとこなかったセリュオスが問い返す。「ええっとですね。昨日が晴れだとしたら、今日は嵐みたいに流れが乱れていると言いますか。……つまり、何かが外から触れたような違和感と言えば良いでしょうか。少なくともこれは、内部からの変化ではありません」  シエルハは確かめるように頷いて、慎重に言葉を紡いでいく。  言いたいことがわかるようで、わからなかった。「この街に対して、外から干渉があったということ?」  シエルハの言葉を噛み砕くように、エレージアが聞き返す。 「はい、その可能性が高いと思います。しかも……これはおそらく、昨夜のうちに起こったものに違いありません」  そのやり取りを、ガドルはただ黙って聞いていた。 彼の視線はセリュオスたちには向いていない。  通りの先――街の奥へと続く道を、ただじっと見つめている。 そこでは、ちょうどディリダが歩いていた。  作業用の鎚を肩に担ぎ、昨夜まで、彼女の背中に張り付いていた棘のような緊張は、今は感じられない。  だが、それが逆にセリュオスの胸をざわつかせた。

  • 時空勇者 〜過去に遡ったら宿敵の魔王と旅立つことになりました〜   第71話「幼き日の悪しき思い出」

     地を這う民の街の夜は静かだが、ほんのりと明るかった。  ここでは地上で訪れる闇夜のように、太陽が沈んで自然と暗くなるということはない。 天井高く広がる岩盤の下では、通りに設置された灯具の明かりが一つ、また一つと落とされていく。  それでも、岩盤で群生しているヒカリゴケが放つ淡い光によって、街の輪郭だけが残される。 かつて、ルキシアナが生み出したはずの文明の光はそこにはなかったが、彼らはうまく自然を利用しながら逞しく生きていた。 人々の足音が減り、道具を打つ音が止み、街全体が呼吸を落ち着かせるように、ゆっくりと沈黙へ向かっていく中、セリュオスたちはディリダが暮らしているという住居に招かれ、そこでご飯をご馳走になった。 石を削って作られたのか、住居は簡素だった。  とは言え、セリュオスたちが入っても狭いと感じることはなく、一人で暮らすにはやや広すぎるような気がした。 壁には余分な装飾はなく、棚も最低限だが、角は丁寧に均されており、床にはひび一つない。  定期的に丁寧な補修をされている痕跡がはっきりと見て取れた。 空腹を満たしたことで、眠気を我慢できなくなってしまったのか、先にシエルハだけが眠りに就いた。   外で微かに聞こえていた街の音は、厚い石壁によって遮られ、室内では火石が放つパチパチとした小さな音だけが残る。「……やっぱよォ、落ち着かねぇぜ」  ガドルは壁際に腰掛け、低く呟いた。  視線は宙を漂い、どこにも定まろうとしない。「でしょうね。アンタは、昔からそうだった」  ディリダは食器を洗う手を止めずに返す。  レバザとエレージアが乾いた布を使って水気を拭き取り、彼女の手伝いをしていた。  ディリダはちらりともガドルの方を見ず、ただ淡々とした口調で告げるだけだ。「この街にいると、まるで自分の居場所がどこにもないみたいな顔をする」 「……」  ガドルは何も返すことができずにいた。  言葉を探そうとしているが、開きかけた口をすぐに閉ざしてしまう。 すると、室内は沈黙が支配する。  セリュオスはその空気を感じ取り、口を挟むようなことはしない。  エレージアもレバザも、ただ黙って彼女を手伝い続ける。 これは二人だけで向き合うべき時間だと、誰もがそう理解していた。

  • 時空勇者 〜過去に遡ったら宿敵の魔王と旅立つことになりました〜   第14話「アベリオンという男」

     荒野に剣戟の甲高い音が響き続けている。  その音の発生源となった衝撃のもとで、どれだけの土砂が飛び散っただろうか。 セリュオスの剣とアベリオンの槍が幾度となく火花を散らし、地面には数々の抉られた跡が刻まれていた。  セリュオスがアベリオンに苦戦しているのは、誰が見ても明らかだった。「……でも、どうしたら、セリュオスが迷わずに戦うことができると言うの……」  フィオラは胸元で弓を握り締め、声を震わせた。  彼女の瞳には、攻め切ることができずに膠着しているセリュオスとアベリオンの姿が映っている。「おい、フィオラ」  隣で立ち上がっ

  • 時空勇者 〜過去に遡ったら宿敵の魔王と旅立つことになりました〜   第10話「猫娘の恩返し」

     三人は夜明けを待って、旅を再開することにした。  もちろん、ミュリナとはそこで別れることになった。  彼女が仲間になることを断った以上、それは当然のことだった……。 森を抜ける道は朝の光で照らされ、草木の露が靴を濡らす。  セリュオスは前を見据え、フィオラは小さく息をつきながらも隣を歩いている。  ダルクは無言のまま進んでいた。  皆が何か考え事をしながら、聖都への歩みを進めていた。 しばらくすると、セリュオスは後ろから小さな影がチョコチョコとついて来るのに気づいた。「……誰か、ついて来てるような……?」  振り返ると、茂みの中でコソコソと動く小さな猫のような姿

  • 時空勇者 〜過去に遡ったら宿敵の魔王と旅立つことになりました〜   第63話「霧と森の戦い」

     濃密な霧が樹海を包み込んでいる。  風の原野を後にしたセリュオスたちは、再び霧の森の中を駆けていた。 光は十分に届かず、木々の間を縫う風がざわめきを運んでくる。  霧は湿り、重く、不穏な気配と共にセリュオスの肌に張り付くように感じられた。 風を裂く矢音や剣戟が徐々に大きくなっていく。  怒号が交錯し、森の奥の方からは、叫びや悲鳴、武器同士の衝突音がひっきりなしに漏れ聞こえてきた。「やっぱりか……」  セリュオスは霧の中を見渡しながら、低く息をついた。  シエルハの情報どおり、森の民と霧の民――二つの勢力が、すでに衝突を始めていたのだ。「ここは大切な遺跡なんです

  • 時空勇者 〜過去に遡ったら宿敵の魔王と旅立つことになりました〜   第56話「罠、からの罠、またまた罠」

    「……やっぱり、俺たちは歓迎されてないんだな……」 セリュオスの乾いた声に、エレージアが肩を竦めた。 遠くから聞こえる足音が止むことはなく、二人の移動に合わせてついて来る。 それらは決して近づくことはなく、一定の距離を保ったままだった。 「当然でしょう。伝説の宝具を持っているあなたを、すぐに勇者として受け入れるほど彼らは愚かではないわ。幾重にも盛衰を経験してきた彼らが、外から入って来た異物を警戒しないわけがないの」 「俺は異物なのか……」 霧が、またひと際濃くなってきている。 隣にいるエレージアでさえ、その表情を読み取ることが難しい。 「たとえ異物であ

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status